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地酒道楽雑記 (2007年11月)

2007年11月05日

小沢代表辞意表明

とうとう仕掛けたね、小沢氏…  
 
これで民主は割れるでしょう  
 
 
どうする、自民…  
 
どう動く、平沼氏…  
 
 
いよいよガラガラポンの始まり始まり〜  
 
 
 
 
…かな??? 

2007年11月27日

輪中堤は今も

本ホームページのトップには、季節に合った「絵」を掲載しております。
現在は、「輪中」をテーマにした水彩画です。
この「絵」を描いて頂いている方は、才能豊かな方で、文章も書かれます。
下記に、トップの水彩画の元となった文章を掲載します。



輪中村の水神さん   今年も豊作だった


今年は、年の初めから全国的に少雨の月が続いて、田植えシーズンを迎えた五月に入ると、早くも節水を促す報道が流された。我が家の周辺の田畑ばかりか、新緑の木々の下までもが白く干からびていた。

しかし、この地域の誰一人として、それに危機感を抱く様子は一向になかった。現に、地域の農業用水路には、まだ水張りも全く始まっていない田圃の脇を、「この見事な水は何処へ行ってしまうのだろう?」と非農業者の私ですら不安に思ってしまうほどに、滔々と流れ下っていた。

ここ西南濃地方の歴史は、有り余る水を制御することによって、農地と村・町を築いてきた。それは、この地に生まれついた人達の宿命であり、生きる源でもあった。その手段が輪中堤の構築であり、水に対する畏れへの精神的支柱としての水神さんであった。水の乏しさを忘れることのできない山国出の私には、堤防とは稀少な水を他所へ逃さないためのもの、水神さんとは雨乞いのためのもの、と思い込んでいたことを思い起こしていた。

私は、そんな五月のある日、大垣輪中堤を一度歩いてみようと、出掛けたのだった。コースは、昔の様子をとどめている西回りを、大島堤から塩田橋辺りまで辿ることにした。

スタート間もなく、堤の上には、次々と二つの堤防決壊の碑があった。その一つ、明治二十一年発生の碑には、堤防約百四十五米(メートル)決壊、当時の曽根村八十五戸のうち五十戸流出、死者四十四名、その日の大垣町は約三米(メートル)の浸水、大垣城天守閣を避難所とした、など大惨事の様子を伝えている。

いま自分が歩いている輪中堤は、目測で、頂上部の幅五米(メートル)、法面十二〜三米(メートル)、高さ十米(メートル)の台形の土盛り(どもり)である。私は、堤の大きさと、それが何十キロにもわたるという偉容さに、今までにない感動を覚えていた。

平野井川の穏やかな流れを右手に神戸町(ごうどちょう)に入った。いきなり、堤は車道と交差する地点で、無残にも切断されている。そのような箇所を「切割(きりわり)」とよぶ。自分はこの切割を、過去に幾度となく車で通過しているのに、今日まで、この輪中堤の存在に全く無関心のままに過ごしてきたのだと思った。

その切割の断面は、厚いコンクリートで固められ、両側には二筋の太い溝が掘り付けられた陸閘門(りくこうもん)となっている。イザという時には、その溝に防水壁板をはめ込むようになっているのだ。この仕様は、大垣市側では、両側に閘門扉(こうもんび)が取り付けられており、水が流入する方向に山なりに閉じるように設置されている。このように、輪中堤は、その後の時代の要請を柔軟に受け入れながらも、元来の役割をしっかりと担い続けているのだ。いよいよ目標の塩田橋も視野に入る所まできた。既に十キロほどを歩いたことになるだろう。日頃の自分にはない距離だ。しかし、まだ足取りは信じられないほど軽快であった。
 

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